■講演者 2【満石 理恵氏】
◎プロフィール
31歳主婦(婚家の家業である建設会社で経理補助をしている)
幼稚園~高校まで普通学級で過ごし、建設会社へ就職、その後レポーターを経て、24歳で結婚。長男がアスペルガー症候群。長男診断時に自分の診断も受ける(当時28歳)
◎家族構成
夫(30歳)と6歳3歳の息子。長男がアスペ、次男は定型(健常児)
理恵さんにとっては、アスペの長男よりも定型の次男の方が理解し難しい。例えば、次男は機嫌が悪い時でも母(理恵さん)が「大好き!ぎゅっ」とすると笑顔でルンルンになる様が不思議でたまらない。(自分や長男なら「機嫌が悪い」ことと「大好き」に何の関係も脈絡もないので、機嫌が良くなる事がない。)
また7年来飼っている犬がおり子育てより前に共存の練習ができた。かげがえない家族。
家族特徴をとらえたエピソードとしては、4人でお寿司屋さんに行った際
次男「みんな一緒に食べると美味しいね」(定型児らしい発言)
長男「ここのネタは、そんなに美味しいという程でもないと思うのですが・・・」
(アスペ特有の言葉通りに受け取った発言)
母「(テーブルにある醤油さしを見て)この醤油って、国産大豆を使っているのかしら」(自分の視点が中心)
父「(母にアイコンタクトを送りつつ)うん。みんなで食べると美味しいね。」
(定型人らしい答え)
母「(あぁ!そうだったと気付き)美味しい、美味しい」とオウム返し。
(急いで母モードに戻る)
◎生育歴
幼稚園入園は2歳の時。既に言葉はペラペラだった。地域のカラオケ大会で「北国の春」を熱唱したところ見事優勝。ここで誉められた経験が快感となり、「一番病」と「コンテスト人生」が始まる。
「お利口さん」と言われる事が大好きだったので、そう言われる事を好んで実行した。(両親の言いつけを守ると「お利口さん」「良い子」と言われるので、その通りにしていた)
自分では全く気付かなかったが、かなり変った子供だったらしく、友達はいなかった。(しかし、両親・先生ともに、それに対してとやかく言わなかった)クラスメイト達に話かけられる事も少なかったが、(本人は話しかけられたくなかったので)その行為は“親切にしてもらっている”と思っており、心地良かった。(最近、それは無視されていたと気付き、軽くショックを受けている)
小学校に入ると、家事デビュー。(お利口さんと言われるので)家のお手伝いはほとんどしていた。ほめられる可能性のある事は全てにおいてチャレンジしていたので、弁論大会・コンテストなど何でも参加しては優勝・入賞し、学校では児童会長も務めた。中学校に入ってもお利口さんは続き、勉強もよくできた。一番病は依然キープしていた。
しかし、高校生になると一番病に陰りがでてくる。一番でなくなった事に落胆し、不登校になる。(不登校はいじめが原因ではない)不登校時に、不良と呼ばれる人々に声を掛けてもらったが、団体行動ができずにすぐに脱落。
家にずっといる事をとがめられなかったが、母親から家事労働全般を1日50円で強要され、「こんな安い賃金で働くなら、学校に行った方がマシ」と思い再び学校へ行くようになる。
その後、自宅ボートのエンジン音の異常に気付き、危険を顧みず原因究明していたところ、中に巻き込まれ足を大怪我。長期入院と高校卒業まで車椅子生活を強いられる。(ASDの特徴をよく表した事故。自分の興味が先行するので危険を察知できない)
大学進学を希望していたが、長期入院による欠席で受験できないと思い就職。後に浪人の道もあった事を知るが、その時は誰もその事を教えてくれなかったので、就職しか道がないと思い込んでいた。
◎就職から結婚まで
就職した建設会社では経理と工事日程の作成を担当。作業効率及び業績はかなりUPしたものの、作業員の休憩や休暇を考慮せず、早く工事が終了することのみ重視した日程だったので、社長からは非常にかわいがられたが、他の作業員からは嫌われていた。また、余暇活動の仕方が分からなかった(自由時間に何をしていいか分からなかった。)ので、終業後は居酒屋でアルバイトを始める。三枚おろしのエキスパートとなり、バイト時給最高額をゲットした。
社会人になって分かったのは小さい頃「お利口さん」と言われていた事項は大人になると通用しないという事。
大きな声で元気よく「お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す」、レストランで2つ隣のテーブルの人にも聞こえるような声で、「いただきまーーす」と言うと必ず誉められていたのが、大きくなると怒られる。
数々の失敗経験から、朝の挨拶は忙しそうに何かしながら早口で「おはようございます」と言うといいらしい、レストランでは小さな声で話すのがいいらしい、実は子供の時のカラオケ大会での優勝は歌が上手かったからではなく、2歳の子供が最まで歌っていた故のことである・・等々が分かってきた。
その後、おしゃべりする事が好きだった為レポーターを目指し、見事合格→転職するも、1人で好き勝手に話しては怒られる日々。また、何よりアドリブ能力を求められたが応じられず、これがネックとなり退職した。
これからどうしようか・・・と思っていた時に、当時交際していた男性(ご主人)からプロポーズされたので結婚。「私のどこが好きだったの?」の質問には「僕にないものをたくさん持っているから」との答えだったそう。(服巻先生曰く、ご主人はとてもやさしくて明るく、理恵さんの事を愛してらっしゃるそうです)
◎アスペルガー症候群と診断されるまで
幼い頃から「変った子」だったが、それに気付かずに育った。しかし長男のアスペ診断に際し(当時3歳)、自分も同じ障害だと指摘される。※このあたりの過程はあまり詳しくお話されませんでした。
長男への「あなたはアスペルガー症候群という障害がある」という告知は5歳の時。
現在は母親も同じ障害を持っている事も知っている。次男(3歳)は。母や兄の事をまだ知らない。
◎「それいゆ」から支援を受ける前
※実行機能障害 (社会性と並んでASDにおける大きな障害のひとつ)
=複数の行動を取捨選択し適切な順序で展開する能力の障害。一つの行動を指示されて一つ実行する、という場面では問題ないが、複数の行動の順序や手順を考えなければならない状況で段取りよくふるまうことができず、行動がしばしば衝動的、断片的なものになること。
・やろうと思った事の変更ができない、優先順位がつけられない為、24時間フルに使って
やり遂げていた。(明日に持ち越す事ができなかった)
例えば
お風呂を沸かしながら夕食作りをしている→ガスを止めにお風呂場に行くと、脱衣所の洗濯機が目に入る→洗濯をしよう!と思い立ち、洗濯物を集めに別の部屋へ入る→部屋のタンスが目に入り、衣替えがしたくなる→手に持った洗濯物を洗濯機に放りこんで、衣替えを始める→お風呂の沸かしすぎの為、セーフティモードとなりアラーム音がなる→セーフティモードを解除する為にガス会社へ連絡する→洗濯が終わった音がする→洗濯物を干す為にテラスに出る→テラスに出たら庭掃除がしたくなり、掃き始める→子供達に「夕飯まだ?」と聞かれて、慌てて夕食作りに戻る→夕食、後片付け、寝かしつけを終える→やりかけの仕事達(衣替えや庭掃除)を片付ける
毎日がこの調子で、睡眠時間は毎日2~4時間。自分が寝ている時間や食べている時間がもったいないと思う程だった。また、体調が悪くてもかなり酷くなるまで気付かず(痛みやだるさを感じる事に鈍感)、医者に怒られることも多々あり。更に熱が40度あろうと、今日の予定に「プールに行く」があれば、(変更する事が嫌なので)実行してしまうこともある。周りから(寝る時間を削って、仕事と家事をしている事について)「大変だったら言って」「何に困っているの?」と聞かれるが、何に困っているかが分からないし、言葉で伝える事もできない。
・アイロンがけは小学生の頃からやっているので上手にできるが、父親のワイシャツの
サイズがLだったため、そのサイズのかけ方しか分からずサイズが変ると出来なくなる。(夫が3Lサイズなので、慣れるのに相当苦労した)
・雑巾を縫う事はできるが、どこから縫い始めればいいのか分からない。縫い始めを決め
るまでに30分かかり、それさえ決まれば1分で縫い上げてしまう。
・料理自体はできるが、買い物が苦手。特に「セール品」「お買い得」は「いつもと値段
が違う」ので対応するのが難しい。ある程度の予算を決めているので、それより下回る
と「予算額になるまで何か買わなくては」と思ってしまう。
◎「それいゆ」で支援を受けていること、支援後に改善されたこと
・長男に対しての対応と療育
長男に対して「これは止めようね」と言うと「状況打破します!」と言って改善するなど穏やかに育っており、早期療育を行うとこんなにも成功体験を積めるのかと感心する。 更に(長男への)療育や支援グッズを作りながら、自分も「学び直し」をしている。
・夫婦カウンセリング(夫婦間の通訳)
夫の行動をアスペ語に直して妻へ、妻の行動は定型語に直して夫へ伝え、双方の理解を図る。また、「夫婦喧嘩は”それいゆ”を通す」事が約束事となり、それ以降、夫婦間は安定した。 (以前の夫婦喧嘩は、夫にとっては喧嘩ではなく妻のパニックに映った。ママモードの時にパニックになる事はないが、妻モードになる夜中の2~3時に突如としてソファーやタンス、お皿を投げていた。夫が「どうしたの?」と聞かれてもパニックモードの時は何が原因なのかは分からない。よくよく考えて1ヶ月後に「あの時の原因は○○だった」 と言うと夫は覚えておらず、それがまたパニックの原因となった。)
・優先順位付きのスケジューリング
優先順位のつけ方のレクチャーを受け、これで良いか家族にチェック・アドバイスしてもらっている。
・脳と体の休息
痛みや熱のだるさ等の症状を感知する力が鈍いので、事前に感じられるように毎朝体温を測ることと、少しでも体調に変化を感じたら受診するようにした。 また体を壊してまでやる家事はない事を理解し、睡眠時間を必ず一定時間とるようにした。
・自己認知をもとに想定力をアップさせること。
それまでは(予定にない)サプライズプレゼントも苦手だったが、今では「相手は私を喜ばせる為にプレゼントをくれる」という事を理解し、「突然プレゼントをもらう事もある」と事前想定しているので、ありがたく受け取れるようになった。
・周りの人達へ理解を求める
アスペルガーと診断された時、夫の両親・親族に「(アスペだと)知らなかったとはいえ、こんな障害がありました。契約解除(離婚)しますか?」と確認すると、笑って「解除しなくていいよ」と言ってもらえた。これは手伝っている経理事務の仕事の速さ(通常20日程かかる仕事を3日で仕上げる)も起因していると自己分析している。このように周りを巻き込んで、理解とサポートしてもらい生活しやすい環境作りをした。また、自分自身も援助が必要だと認識した。
■今後の望み
・幼少期から社会性を学び、振る舞い方、焦点の当て方を教えてほしい。(自身は”受動タイプ”だったので、意味も分からず真似するだけで何も身につかなかった。お手本がない場合に困ったので、意味から教えて欲しい。)
・対人スキルを身に付けるのは、年齢があがるほど困難になっていくので、幼少期から特化教育をする事が必要だと思う
・定型社会を知りたいと思うので、その文化を自閉語に直して教えてくれる通訳が重要だと思う。配慮ばかりを望んでいるのではなく、プロセスさえ教えて貰えれば実行はできる。できるだけ自分でやれるようになりたい。
・どうせがんばるなら、正しいやり方で的確にがんばりたいので、その助言をしてほしい。
・成長と共に世界は広がり、変化が増える。よく進学→結婚を目標にしている話を聞くが、実はそれ以降の生活期間の方が長いので、もっと長期的なライフサポートが必要だと思う。(長期間のサポートは費用がかかると言われるかもしれないが、心を壊し精神障害者手帳を発行し援助するより金銭面でも心身面でもより良い結果となるのではないか)
・支援によってパニックは格段に減り、自分のみならず周りも幸せに平穏になった。困った言動や行動も予防できるので、是非「通訳」「支援」の輪を広げて欲しい。
■最後に
ASDの人に対しては、どんなに安定している時でも「この人は”自閉症”を持っているのだ」と忘れず接する事がポイントで、よりよい関係を築くことができる。これは当事者にも該当することです。
【その他】
服巻先生が「それいゆ」で幼少時より療育を受けた男の子の話をされました。
「知的障害がある」と診断されて、小学校で加配がついていた子が、中学から急に勉強が楽しいと言ってグングン成績が伸び、ストレートで佐賀西高校(佐賀随一の進学校)に入学。学校でも「変った人」度は高かったが、往々にして進学校には先生も生徒も「変な人」が多いので、さほど周りも気にすることもなく、自由な校風のもと学生生活を送った。大学も現役合格し、高校時代は「僕の辞書に“友達と出かける”という行動は載っていません。」と言っていた彼が、現在では「“趣味・興味が一致すれば一緒に行く“という行動を辞書に書き加えました」と言って、友達と待ち合わせて出かけるようになったそうです。
また、同じく早期療育(この場合TEACCHを指す)を受けた人で、(言葉がほとんどでない位の)知的障害があっても、心穏やかに安定して過ごしている人は何人もいて、その心豊かな笑顔を見ては、これまで行ってきた支援が実ってきて嬉しいとのことでした。
福岡市発達障害者支援センター開設1周年記念講演会 議事録2

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